父親の手術

父親が手術を受けた。

かねてから冠状動脈の塞栓が危惧されていた我が家の父親、ついに心臓のバイパス手術を受けることとなった。手術前の説明では三本、開胸の結果、四本のバイパスを作るというかなり大掛かりな手術。もともと心臓弁膜症を患っているうちの父親は、弁の周りに血栓が発生しやすく、その血栓が足もしくは脳に飛ぶ恐れを抱えている。たいていのケースで血栓は脳に飛んでしまい、脳梗塞を併発する。今回の手術でもそのリスクを説明されていて、大丈夫かなーと思っていた矢先に、やっぱり起こってしまった脳梗塞。急遽転院してICUに入れられて一週間。その後ようやく一般病棟に移動が認められ、病室を移動した。
今回脳梗塞が発生した部位は小脳で、そのせいで小脳が腫れていて脳幹を圧迫していて、一時はかなりデンジャラスな状態だった。バイパス手術自体(四本)は成功していたのと、脳梗塞発生後も終始意識があったのが不幸中の幸いだった。でも昨日のCTスキャン結果によれば、少しずつ脳の腫れが引いているという。というわけでちょっとホッとしてもいるんだけど、これから始まるであろうリハビリと退院後の生活を思うと複雑な思いもないわけじゃない。

うちの父親は二十年前にも大きな脳梗塞を経験している。今回の脳外科医の診断では、最初の脳梗塞以来もぽつぽつと梗塞が起きていたと。うーむ。唸った。
その二十年前の最初の脳梗塞は左脳に起きて、後遺症としては言語障害、感情のコントロール、右半身の軽い麻痺など。当時はMRIなどもまだ一般的でなくて、何とか治療が始まったのが倒れた一日後だった。その時僕は中学三年で、父親が倒れてからようやく案内された病室で、こちらからの問いかけにただただ涙を流すだけの反応しか見せられない父親を呆然として見ていたのを思い出す。つい二、三日前まで快活に暮らしていた父親が、突如何もできない・片言の言葉さえも話せない病人へと転落していた事実があまりにも重すぎて、眼の前に立っている息子の名前を呼ぶことさえできなくなってしまった父親を前に、どうにも悔しくてひたすら涙していた覚えがある。

そんなうちの父親、当時入院していた病院で「車椅子ですねーそれともうしゃべれませんよ、たぶん。家族でがんばるんですな」と言われたことにロックに反応したのかは知らないけど、その後のリハビリではまあまあな感じで、結構有名どこのリハビリ病院における半年の予定のリハビリを「さっさと家に帰りたい」というなんともわがままな理由で三ヶ月で引き払ってしまった。しかしその後、通常の生活でめきめきと驚異的な回復を見せた。言語の方は、流ちょうではないもののまあまあ通常の生活には支障を来さない程度にコミュニケーションが取れるようになったし、車椅子と言われていた運動機能の方は日常生活や運転、仕事にほぼ何の影響もないくらいにまで回復した。日常生活が最大のリハビリになったんだろう。…と一言で言うと、おーすげーじゃんとかなってしまうかもしれないが、当時中高生で多感なお年頃だったうちら(二歳下の弟と、当時一歳くらいだった14下の妹含む)からすると、そんな一言では済まされない、まさにタタカイの日々であったわけだ。

うちの父親は日本人ではない。
島が7000以上もある常夏の東南アジアに位置するフィリピンという小国の出身だ。なのでハーフな訳です、自分。見てくれはどう見ても日本人だけど(時に韓国人にも間違えられる、仁川空港では韓国人CAに韓国語で案内されたし)。そんな常夏の国からうちの父親が日本にやってきたのはベトナム戦争も終結した1975年のこと。当時の日本では、生バンドの奏でる音楽を聴きながら一杯、みたいなクラブが大流行していたようで、商船大学を中退してバンドを組んで音楽をやっていた70年代ロック大好きなうちの父親もそんな波に乗っかって(たぶん興行ビザで)日本にやってきたというわけだ。主にベースとギターを担当していた父親、そこへ客としてやってきたうちの母親と出会って結婚に至る。さっきはうちの父親が「ロックに反応した」と書いたけど、今思うと一番ロックなのはうちの母親なのではないかと思う。当時、外国人、それもアジアの男性と結婚するなんてのは相当に理解に苦しむこととして受け止められたと思うんだけど、それをそのまま一緒になってしまった東北出身のうちの母親、あなたはかなりロックですね。当然、家族からは相当反対されたらしい。まあこの二人が出会わなかったら自分もこの世に登場してこんな駄文を書き連ねて毎日おかしな原文と訳文をこねくり回して、なんてことできてないわけで。はい。

そんなこんなで日本の生活に慣れ、溶け込み、日本語を自由に操り、永住権も取得して自営業も営んでいたうちの父親が最初の脳梗塞に倒れることになったのは、今からちょうど二十年前のことだった。まあその前にも脳梗塞の兆候的なことがあったんだけど、病院での診断もちょっとうやむやになってしまい、結局実際に脳梗塞で倒れるまで自分が爆弾を抱えて生きていたと思っていなかったわけだ。そして前述の状況となり、リハビリを終えて家に帰ってきたうちの父親。うちらからすると、すでに父親不在の環境が断続的に半年続いていたということもあり、父親が帰ってきて共に生活をするということに慣れる必要性があった。慣れる、と一口に言ってもそれは結構大変なことだった。よく言われることの一つに、脳卒中や脳梗塞などの脳疾患を起こした人は、起こす前と起こした後とで人格が完全に変わってしまったように思える、というものがあるんだけど、うちの父親についても同じことが言えたと思う。後遺症という名の様々な制約がある中で触れ合う父親は、少なくとも自分にとって本当に別人のように思えた。本当は、本質の部分では何一つ変わっていないんだけど、それに気づくにはまだ若すぎたんだと今は思う。

こっちも中学・高校で、反抗したい年頃なわけで、父親とはしょっちゅうケンカが絶えなかった。もともと短気で怒りっぽいうちの父親は、後遺症で流ちょうに自分の感情や考えを伝えること、そして感情を抑えることが難しくなってしまっていて、同時に手が出やすくなっていた。生活に存在するあらゆるコミュニケーションの中で、会話がかみ合わず、お互いイライラがつのり、最後には父親が拳で殴ってきてゴングが鳴る!!みたいな状況が本当によく発生していた。うちの父親はユーモアあふれるラテン系なとこがある反面、躾には非常に厳しい人で、子供の頃はもうそれこそ怒らせるととてもとても怖い存在だった。そうやって育ってきた者として、父親に手を出すなんてことは、考えられなかったし絶対にやってはならないことだったわけだ、我が家ではね。でもしょっちゅう手を出されてぶっ叩かれたりしているうちに、だんだん、また始まったよ、みたいな雰囲気になっていって、うちの父親は干された存在になっていった。「お父さんに言うと怒るから」とか「お父さんには言わないでおこう」とか、無視とか、あーはいはいとぞんざいに扱ったりとか、「おらー殴りたいなら殴れよコラー!」とか。病気をする前だったら絶対に見せたことのないそんな家族の理不尽な態度に、うちの父親は相当戸惑い、傷つき、怒ったことだろうと思う。そしてそれがますますお互いの軋轢を生み…といった感じで、僕が高校生の頃はそういうのが家族の風景だった。でも本当のことを言うと、うちの父親はゆっくりきちんと説明すれば納得して理解するというのも事実だった。そしてそれは病気前と後で特に変わってしまった部分ではなかった。だからそれに気づけなかった当時の自分は、今思うと、若すぎて自分のことばかり考えていたイタい奴だった、というのが問題だったんだろう。けどそんなわけでうちらにとっちゃタタカイの毎日だったわけで、それはまあうちの父親に関してもそうだったんだろう。

でもそんな若い自分に、あるイベントが訪れる。

(続く)

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