A Trip to Europe 2012 – Vol. 2 (Hamburg)

かねてから、ドイツに行くんだったらどこでもいいので是非一度強制収容所を見学したいと思っていた。
滞在先のハンブルグ郊外にはノイエンガンメ強制収容所跡地があり、ちょうど僕らが滞在している週中にCくんの知人がツアーをしてくれるとのことだったので、参加することにした。今回の内容はちょっと重め。

ノイエンガンメ強制収容所の入り口の記念碑。

Neuengamme – Entrance

ノイエンガンメ強制収容所はもともとザクセンハウゼン強制収容所の付属収容所で、1938年から1945年まで強制収容所として機能。収容者はレンガを作る強制労働に就かされていた。106,000人が収容され、55,000人が死亡した。1938年当時は思想犯(共産主義)や刑事犯が多かったのだが、その後ユダヤ人はもとより、同性愛者、ロマ(ジプシー)や聖書研究者など、多くの人々がヨーロッパ全土から収容されるように。この強制収容所はトウモロコシ畑が広がる本当にのどかな一帯にあってとても広い。70年近く前にこんな場所に強制収容所があったという事実が信じられないくらいに牧歌的で平和。ハンブルグ中央駅からベルガドーフ駅、ベルガドーフ駅のバスターミナルからバスで30分くらい。バスが去ってしまうと時折聞こえる鳥の声の他に物音は自分たちの歩く靴音だけ。天気はとても良く、空は澄んだ青。入り口の記念碑を見ても、まだ収容所跡地に入ったことに実感が持てなかった。それほどまでに静かで、平和的な雰囲気に満ちていた。

入り口を入るとこじんまりとした小さな慰霊館があり、収容されていて亡くなった方々の氏名がずらりと並んでいる。とても静謐でいて、しかしその氏名リストを目にすると圧倒的な重圧感を感じる。リストには空白部分が残されていた。ガイドで僕ら一行を引率してくれたプットカマー氏によると、リューベック収容所への移送船が英軍に誤爆された時の氏名確認のできない方々のものだそう。

Names



上の写真の氏名一覧はこのSSが管理していた手描きのリストを元に作成されていて、生存者の方たちが解放の際にリストのノートを発見してなおかつ隠して保管していた。写真ではわかりづらいと思うけど、各囚人の死因も細かく記されている。

Name list



死にゆく若い女性収容者の彫刻。劣悪な労働・衛生環境による極限状況の中、収容者はこんな姿で死んでいった。

Sculpture of a woman



レンガ工場内部。

Brick factory



このスロープを利用してレンガの原材料を工場へ搬入、完成したレンガを工場から搬出した。自動でトロッコを動かす装置もあるにはあったが、故障して放置されていて、囚人は何人かで自力でトロッコを押し上げていった。トロッコにつまれた原材料も完成したレンガも相当の重量だっただろう。囚人たちはろくな食事を与えられておらず、けが人及び労働からの脱落者も続出したとのこと。

Brick factory



監視塔。

Guard tower



完成したレンガはこの運河を通ってエルベ川へ、そしてハンブルグへ運ばれた。

Canal



レンガを作る当時の囚人たち。

Prisoners making bricks



レンガ工場とSSの官舎。本当に静かで鳥の声以外何も聞こえない。青い空。白い雲。

Brick factory and SS complex



当時のレンガ工場。

Brick factory at that time



SSの官舎。

SS’ building



囚人たちを朝点呼する広場。毎朝囚人たちはここで点呼を受けた。

A roll call place



囚人たちのバラックが連立していた場所。木造だったので、当時のバラックは残っていない。

A site where prisoners’ barracks existed



当時のゲート。

Gate



当時の電流が流されていた鉄条網フェンスのポール。

A wire fence pole



地下の作業場。この作業場にはもう後先長くない囚人が運ばれ、内職のような軽い仕事をさせられて亡くなっていった。

Underground workplace



囚人服。

Prisoner’s uniform



強制収容所全景(模型)。

A bird-eye view of KZ Neuengamme

収容所跡地内には資料館があって、記録が残されている限り収容されていた人々の詳しい生い立ちなどの文書やビデオ資料があった。膨大な数の文書、写真、ファイルがある。何気なくめくっていくと一人一人の一生が綴られている。それでも全部、ここで人生を強制的に終わらされた人々の記録。自分の店を持っていた人、エンジニア、研究者、ボクサー、アスリート、子供。様々な背景を持つ一人一人。ページをめくる手が重く感じた。

宿舎に戻ると、ウォルフガングとマリアンネが庭で夕食を準備していてくれた。ノイエンガンメに行ってきたと言うと、ウォルフガングがビール片手に話してくれた。
「最近はドイツの若い人はもう収容所跡地なんて行く人は少ないし、存在すら知らない人もいる。だけど戦時中、ドイツは確かに狂ったことをたくさんしていた。あの時代は本当に狂っていた時代。人間としてそれらを忘れることはできないし、国際社会に対してもきっちりその姿勢を見せていかないといけない。その上で未来に向かって進んでいく必要がある。その一方で過去は過去だ。我々はそこに生きているわけじゃないんだ」

大戦後のドイツは東西に分けられてしまった。あのベルリンの壁が崩壊したのは1989年、そして正式に再統一を果たしたのは1990年。とても興味があったのでその辺のことも聞いてみた。実際ベルリンの壁が崩壊した時、数カ月前くらいからその兆候はあったのか、当時の雰囲気はどうだったんだろう。

「突発的に始まったっていう印象だったね。突然だったっていう記憶がある。まあ私だけがそう思っていたのかもしれないが…。最初に壁に集まり始めたのは若い人達だったみたいだね。それで散発的に壁が壊れていった。まあそういう時代背景もあった。ソ連が崩壊するかしないかの頃だったしね。でも最統一後はしばらくは大変だった感じを覚えている。特に元東ドイツだった人々は西側の生活に慣れるまでに大変だったろうし、それまでに存在していた経済格差も暗い影を落としていてなおかつより一層表面化した訳だからね」

ドイツって再統一後しばらく景気悪かったイメージがあったんですよね。

「そうだな、20年くらいずーっと不景気が続いてたね。つい最近じゃないか、色々良くなり始めたのは。経済的な強みも出てきたし、やっとマシになった感じだ。それでもEUで見てみれば他から足を引っ張られる状態が続きそうだなあと思うね」

住んでいる人から直にこういう話が聞けるのは旅の醍醐味でもある。そんなこんなで時計を見ると八時半。まだまだ空は青く、明るい。
陽は沈まない。

そしてオランダへ。エンメンとアムステルダム。

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2 thoughts on “A Trip to Europe 2012 – Vol. 2 (Hamburg)”

  1. 貴重な写真の数々。牧歌的風景の中に存在しているところに人間の持つ業の深さを感じました。ドイツ人との会話も味わい深い

    Reply
    • >あきーらさま
      お読みいただきありがとうございます。
      収容所跡には絶対に行きたいと思っていたので良かったです。
      言葉でうまく伝えきれていないと思いますが写真がいろいろ語ってくれていると思います。
      広島と長崎にも必ず行かなければとも思っています。
      旅行記、まだまだ続きます。お付き合い頂ければ幸いです。

      Reply

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